でくのぼうちゃんのブログ

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大人のやりたいようにするために子どもには無力感を与えるのか。その子どもが大人になったときどうする。

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photo by be creator

子どもと子供は違うようにおもう。

まいどです。でくのぼうちゃんです。

保育園のあるところがショッピングセンター敷地内のため、毎日ショッピングセンターに行きます。

ショッピングセンターに行ってけっこうよく見るのが、「家族みんなでショッピングセンターにきているぞ」家族です。

家族みんなで行動することは悪いこととはいいませんが、どうみても子どもはいやいやに連れてこられている感じです。

で、親のお供のようにいるような感じです。

子どもは親のお供ではないと思う。

子どもという字からして「子共」なわけですから「お供」という価値観から

離れにくいです。

そのため、今は「子供」という字を使わずに「子ども」という字を使おうというのを

よく聞きます。

それはそれで大事なんですが、家族という形態が親の価値感の中で作られたものと

いうところがあり、主はあくまでも「大人」であり「子」は供(従者)である

社会があるように思います。

そう、供は「従者」なんですね。従える者。

しかし、従うといった行為はかなりの高度な精神をもっていないと出来ないように思うのです。

たしかに、子どもの価値観は自由でびっくり行動があります。どうしても大人の作った価値観にそってもらわないと困る時があります。

しかし、大事なのは子どもの意志力を育てることにあると思うのです。

偉そうなことは言えませんが。

無気力な大人を増やしたくない無気力気味な主婦が思うことです。

ベビーカーというもの。

我が家ではベビーカーが2歳半ぐらいにベルトのところが壊れてしまい、

乗せるとすぐ脱走?をし、まったくの邪魔物になってしまいました。

息子からしたら乗りたくないという意思を行動で示してたわけですが、

こっちからしたら保育園のお昼寝ぶとんを持ち帰る時など乗ってほしいわけです。

そんな状況がありながらも壊れたベビーカーを修理する時間はなく、

もういいやということで乗せないようになりました。

ベビーカーを使うことを否定するわけではありませんが、

ショッピングセンターでよく目につくのがけっこう大きいのに乗せている状況です。

それはそれで必要なんだなと思うのですが、先日見た親子は、むむむという思いが

出ました。パン屋さんでの出来事です。子どもは2歳半くらい。母親は30代くらい。

ベビーカーに乗せられてベルトを締められた子どもは前進したい、けど親はショッピングに夢中になっていて後退していく。

子どもは一生懸命声をだすのだが、親は気付かず。

しまいにゃ、子どもはぐったりして意思をだすのをやめて無力感をただよわせながら

ベビーカーに座っているという光景でした。

どうしてもショッピングに夢中になっていると子どものことはどこかにいってしまう

というのは仕方がないことです。

ベビーカーのデメリットはそこにあるのだなと思いました。

たまたまその親子の時間の何千分の一の行動を垣間見たので普段のコミュニケーションでカバーされていたら問題はないのですが。

まとめ

子ども(若者など)従者的価値観でいる大人が多いから今、話題になっている年金の漫画のような「高齢者は昔苦労して今の社会を作ってきたのだから、自分たちが年金もらえなくても払いなさい」的な価値観が生まれるのか?と思ってしまいました。

子どもの時に無力感を与え、大人がやっていることに従わす。

では、その無力感を与えられた子どもが大人になった時はどうなるのでしょうか?

無力感を与えられた子どもは自分がされたことに気付いて、自分の子どもには

無力感を与えないように努力するか、または自分がされたことは正しいと思い、

自分の子どもにもするのか。選択はその大人になった子どもたちにあるわけです。

しかし、無力感を与えられているため意志力は育っていない可能性があるため

ひきこもってしまう可能性もあり独身を通すかもしれません。

 

育児には正解がないと思いますが、日々振り返りも必要だなあと思う今日この頃です。

 

ほな、また。

 

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