砂の山。
まいどです。でくのぼうちゃんです。
今日は震災の話を。フラッシュバックがある方はご遠慮くださいな。
21年目なんですね
早いものです。
姪がこの出来事から二日後に生まれてきました。
京都に近い大阪だったので幸い影響はなかったようです。
記憶というのはすぐには消えませんね。
21年もたったというのに。
17日の前の日に三宮に遊びに行きました。
当時の彼は何を思ったのかどえらい高い靴を買ってくれました。
なんかあるんちゃうかー。地震なんかあったりして。二人で笑いました。
神戸に地震なんてくるわけないやろー。
それまで生きていて「地震」というものにまったく縁がありませんでした。
神戸には地震がこない。誰もがそう思っていました。いや思い込んでいました。
しかし、次の日体験したことがない揺れが家を襲いました。
私は尼崎に住んでいました。
幸い、家族全員無事でした。
父親は消防隊員でしたのですぐ出動になりました。
残されたのは母親と私。
母親はせっせと倒れたタンスを元に直そうとしていました。
しかし、私はまた後にくる余震で倒れるかもしれない。
そう思っていました。
なにかしてもなにもかもまた無くなってしまう。
砂浜で作ったお城を波が飲み込んでしまうように。
何度も何度もお城を作ってもすぐに波がのみこんでしまうように。
TVを見て神戸の状況ばかりを見ていました。
燃え盛って街並みが無くなっていく光景だけを見ていました。
なんのために人は生きているのだろう。
何かを作っても地震でなにもかもなくなってしまうではないか。
作る意味はどこにあるのだろうか。
無常感ばかり襲ってきます。
無常感ばかりが湧いてくる
なにかしてもどうせだめだろう。
これをしてもどうせなくなるだろう。
●●してもどうせ△△だろう。
震災からこのような考えが起こりました。
次の日から会社でしたが、出社して仕事をするも●●してもどうせ△△だろうという考えが消えませんでした。
その考え方が湧いてくる自分を受け入れることができず、一生懸命充実しているように服を買ってオシャレしたりあちこち美味しいもの食べたりしました。
しかし、残るのは虚しさばかり。
その虚しささえも受け入れず、ただ充実したふりをする。
それから何年か後に、私生活で痛い出来事があり、出社できない状態になりました。
明るい未来に向かっていたのがいきなり奈落の底に落とされました。
どうせ明るい未来に向かっても奈落の底に落とされるのだ。
そんな思いが出てきました。
しかし、私の中で生まれて初めてありえないほどの怒りがこみあげてきました。
相手に対してだったんですが、相手をちゃんと見ていなかった、いやうっすらわかっていたけど見ないふりをしていた自分に腹がたったんでしょうね。相手に転嫁しましたが。
裁判所などにいって相談したりして賠償金などの話を相手にぶちまけました。
怒りが砂を噛むような生活を無くした
心から湧いて出てきた「怒り」が震災から抜けなかった「無常感」「砂を噛む日々」から私を抜けさせてくれました。
そこから自分がやりたいことはなんだと考えるようになり、OL生活をやめ、資格学校に入り自分のしたいことはなんだと模索するようになりました。
やりたいことをなんでもやりました。
スピリチャルにもはまりました。
旦那と全国旅もしました。
楽しいことばかりしても何かが違う。
心を込めるということはどういうことだろう。
そんなことを思って、USJのクルーバイトをしたり、不動産屋営業をしたり。
で、パワハラあって痛い目にあったり。
で、今の仕事に出逢って今があります。
まとめ
震災をきっかけに無常感という私の中に潜んでいた部分が表面化したのではと思っています。
震災がなかったらもっと遅くに違う出来事で表面化したかもしれません。
100人いたら100人の震災ストーリーがあると思います。
私は震災の時はまったく動けずただTVを見続けた人。
そして無常感を起こしてしまった人。
それをなんとかするのに十何年くらいかかった人でした。
いまでもすぐに「どうせ・・・」が出てきそうですが、それが積み重なるとしんどくなるというのが体験でわかったので今ではちょっとでもできることをするようになりましたよ。
ほな、また。