帰ってきたのか、まだ最中なのか。
まいどです。でくのぼうちゃんです。
幸せとは不幸せを味わってわかるものなのか
不幸せとは、自分の幸不幸を環境や人のせいにしていること
不幸せをそう定義すると、私の不幸せはいつからだろうか。
子どもを生んだ年を「不幸せ元年」としたら、もうすぐ13年。
子どもを生んだから不幸せではなくて、育児で不安いっぱいで次から次へと問題がやってきてもう自分の手にはおえないけどなんとかしなきゃいけなくて、周りに迷惑かけなきゃできないけど謝ってばかりな自分に腹が立ち、もう周りのせいにしてたほうが楽だからそう生きてきた、ということが不幸せ人生。
中立の見方ができず、協力者なはずの元だんなは第三者的協力姿勢だった、それを選んだのは自分を責めてしまい我慢すればいいと我慢してたら、これでもか困窮世界に行ってしまった。この13年はいろんな世界を味わったなあ。
困窮の世界、冤罪の世界、パワハラの世界。
もう、そんな世界は行きたくない!と決めたわけですが、
ハードな道を歩きすぎて、平和な道に行けるのに、ハードな道にしようとする癖がついていると、気付いたわけですよ。
しかし、平和な道ばかり歩いているとそれが平和な道とはわからないわけで。
今は、平和な道なんだよ!安心して!と自分を言い聞かせるのがこんなに大変なものかと。
ハードな道を歩ける自信はつきましたよ。
しかし、引き寄せちゃってるんだから、こりゃ困った。
これを読んどります。
ハードな道を歩くことを創造しちゃっている。
相談者には、もう平和ですよ、て言ってますがね。
野宿を長年された方は、そりゃかなりハードな道を歩いてきたわけですから、すぐに考え方はかわらない。
野宿中は、リュックに必要だと思うものすべて入れて背負って歩いていたわけです。
姿勢は倒れないように頭は垂れ下がり、首は前にでている。
レントゲン写真が取れにくいほど。
平和な場所であると自覚し、今を味わって楽しんで生きる。
この考え方がけっこう大事なんですね。
ほな、また。