どちらが先か。
まいどです。でくのぼうちゃんです。
卵が先か鶏が先か
居場所ていうのは、自然発生的になるものであってつくるのはおかしいんじゃないか?
以前の私はそういう考えがありました。
しかし、居場所事業を仕事としてやってきて、子どもを出産するときは他の方にやってもらい、そこが解雇になっても違う形でやり続け、困窮になり電車賃が危うくなっても週3回やり続け、困窮から脱出し今度は会社からの圧でやりにくくなり、コロナ禍で休止になり、コロナが落ち着いてカラオケはできないけど集まる居場所として復活という歴史を振り返ると、事業であろうがなかろうが、居場所としてやり続けたら自然に人の居場所になるという答えが見えてきました。
つまり、どっちでもよい。
私の居場所なのかもしれません。そこにわしも居場所と思うんだよ!て人が集まっている。
ただ、あいりん地区でカラオケを絡めた居場所がこんなにも圧がかかるとは夢にも思ってませんでした。
私のやり方が仲間と仲良しこよしの馴れ合いでつくりあげたものではなく、どちらかというと一匹狼的に活動してきているものがある、ただ一匹狼的に活動する方はあの地域から排除される傾向がある。
私と今居場所事業で話し合っている方にそう言われました。
手伝うよといって来る方はいますが、来たりこなかったり。
釜のおっちゃんたちには信用がありません。
そんな方々に焦点あわせとったら釜のおっちゃんたちの居場所がなくなるわけですから、一匹狼的にしなければいけないようになっただけですが。
やるにしても継続的にやることに意味がある。
ただ、私の考えは昔から「遊びは必要」であって、困窮を脱するにはまず労働!といっている方々とはちょっと違う。
遊びから学ぶ、人との繋がり、生きることは楽しい、ということを感じていただけたら。
困窮を味わうと視野が狭くなり不安が強くなる。
困窮になる原因は様々な原因が絡まっていますが、
相談する人がいない、も原因の1つだなと
相談業務をしてまして思うところです。
相談しても良いかも、楽しく生きたい。
参加する方々にそれを味わってもらったら。
スタッフはただボーと座ってて10分くらいしたら帰る人はスタッフとは言えないのでこれからそういった方々を「訪問者」と区別しないととは思いました。
温度差の違いなんで仕方ないんでしょうけど。
50を過ぎて「感謝」を学ばんとなあと思いますが、歳を取るほど考え方が難しくなるようで。
まあ、今日も家族が健康で私ものんびり休めている現状になっていることが感謝することですね。
ほな、また。