知覧という場所。
まいどです。でくのぼうちゃんです。
知覧という場所
今、この書籍を読んでいます。
新聞に紹介されていまして。
無理ゲ―というのは攻略不可能なゲームなことをいうらしいです。
この書籍の感想はまた後日書きますが、まあすっきり感のあとにモヤモヤ感が残る内容です。
この書籍の中に知覧がパワースポットになっているという話が書いていました。
知覧にいった方の人生観がかわる。
迷ったら知覧に行け。
私も知覧に行って人生観が変わったので、そういう人が多いのだということ知りました。
知覧に呼ばれたのか知覧を私が求めたのか。
この生ぬるい社会、井の中の蛙、使っていた水がゆっくりと沸騰させれていく感がある社会。この社会で必要なのはなんだろうか?そう思ったとき、宮崎、鹿児島に行く用事があったので知覧に行きたいと前の旦那に伝え、旅行のスケジュールに組み込みました。
そこにあったのは十代の若者の遺書。
それはそれはどれもありえないほど達筆。どんな精神で生きてきて教育を受けてきたのだろうか。優秀な人材ばかりが集まった特攻隊。
そんな彼らはお国のためと旅立って行った。
そんな彼らの命を犠牲にしてあるのは今のこの社会。
彼らはこんな社会になってほしくて命を犠牲にしたのか。
そんな思いがその遺書を見て湧き出てきました。
私が生きていて「ちゃんと生きなきゃ!」と思ったのは、10代後半の時に田舎で昼寝しているとご先祖様が出てきて、お前の未来を見せてやる!と死んだ魚の眼のような私が郵便局でダラダラと仕訳している姿を見せられた時と、この知覧にいって彼らの遺書を見た時です。
この後は、ちゃんと生きなきゃ!というよりもしっかり生きたい!と思わないといけない出来事がどっときました。おかげで今日に至ります。
義務でするより、本心でするほうが自分のためになる。
生きる気力をわかせてくれたのは釜ヶ崎です。
釜ヶ崎で生きている人たちの盗電してまでも、路上屋台で仕事するで!と路上であさり売っている姿を見て必死で生きていくことを学んだような。別にそれをするわけではないのですが、生きることへの執着といいますか。
当時の私は声を出すことにも意味を考えていたほど。
今でも話すことはそんなに好きでないのですが、相談員してますと相手に生きる気力もってもらわないといけないので声をだしてる感じです。
唄もやっと歌うことは楽しいと思えてきたので声が出るようになりましたが、当時の私は声をだすことの意味がわからないわけですから歌うなんてなんでする必要があるの?
なんて思っていたほどです。しかし、心は歌うことを求めている。それに従って歌を習ってきてもう18年くらいですわ。どんなに時間かかってんという話です。
そう生きる気力を湧き出させるには釜ヶ崎、そのあとの気力を湧き出させ続けるには
知覧をおすすめしますよ。
今日から8月。
戦争を考える月です。
知覧にある筆で書かれた遺書。あれほど筆遣いはどれほど学ばねばならないのでしょうね。
ほな、また。