はぐれてもいいじゃないか。
まいどです。でくのぼうちゃんです。
連帯という意識
連帯という他人のものさしにあてはめられて動くことがそんなに得意ではない。
状況にもよるんですけど。
大体、組織は言うことを聞かない人が一人いたらその人を悪者にして排除するか、器があったら
上手に巻き込むかをするかとは思うのですが、今回は前者の対応を取られた状況。
今日のおちょやんのドラマを見て、みんなでいい芝居を作るために協力しようよ!という
セリフがありましてこういう場面が現実に起きるときってどういうときだろうと考えながら
見ていました。
長の対応が重要なんだろうなと一平の行動を見て思いますし、役者の方々も協力しようかという
気持ちが大事なんだろうかなと思います。
学生時代は演劇部だったので皆で何か作ることの素晴らしさは体験しているのですが、この一平が役者一人を攻撃してたら皆で協力しようよという言葉はただの圧力になるのではと思ったり。
役者一人ひとりが給料が一緒ではなく一人だけ給料が少なく、まわりからもこいつのせいで迷惑かけられたんですわと文書が入り、それを座長が俺知らんし、お前が勝手にやったことやからと言ってたら皆で協力しようよという言葉は、説得力のない言葉となるでしょう。
そのシーンを自分のこととして考えると、わたしが自分のせいで皆に迷惑かけたと思っていたら、病んでただろうなあと思ったり。
図太くてよかった、私。
取り残される、といった気持ちも排除されていたら自然にでるものだわなと見てて思ったのです。
かなりストレスが溜まっていたのね、わたし。
連帯意識というものの良さもわかっているのですが、怖さもわかっている。
人間はそんな仲間とともになんて人は今はほとんどいないんではないかと思うくらい、
人は人、自分は自分の人がほとんどと思っている方のほうが多く、そう思って生きていくのに楽だろうなと思います。
演劇部は一人ひとりが自己練習をして本番に皆でいいものを作り上げる集団。
セリフが入っているのは当然で、忘れてもアドリブで機転を利かすことも必要。
仲間がセリフを忘れてもアドリブでカバーするくらいは当たり前なこと。
連帯の素晴らしさを味わいましたよ。
学生時代と社会人では全然違うんですけどね。
怖さは昔に管理者養成学校というものに入ったときに味わいましたよ。
一人ができないとみなもカリキュラム進めないというラジオ体操がありまして。
みな、必死ですよ。走るラジオ体操。あんなに一生懸命ラジオ体操したのはあとにも先にも
あのときだけ。いち、にー、さんを叫んで言わなきゃいけないから喉潰れる。
食事のときには八甲田山の話を聞かされる。
長の言うことを聞かないで死んでいった隊員の話。
風呂は時間が決められていて、みな必死。私語はない。
就寝も早く、テレビはない。
帰るときには皆、叫びすぎて喉つぶす。
迎えにきたスタッフに「〇〇、帰ってまいりましたぁ!」と新大阪駅で叫ぶ。
洗脳の怖さも知りましたよ。人は2週間あったら見事に洗脳されます。
取り残されるという意識は、洗脳されていることを意味すると思うのです。
そんなことを考えると、やはり、好きなことをしてワクワクして生きるほうが
私にはあっているよなと思うのでした。
服はまだ、無難は無難なものばかりを選びますがね。目立たないように。
ほな、また。