連帯感について考える。
まいどです。でくのぼうちゃんです。
みんな違ってみんないい世の中に連帯感は生まれるのか
この頃、連帯感について考えています。
連帯感というのは不思議なものです。
senceが関係してくるからです。感覚ですね。
繋がっている感じがどこから生まれてくるのか。
5感だと今という瞬間を感覚を使って味わうことだと思うのですが、この連帯感も感覚。しかも、5感ではない。
何かを一緒にする。(時を共有する)
立場が一緒である。(共通点が多い)
それらを簡単に言うと
「同じ釜の飯を食らう」
同じ共通事項を5感で感じた結果ということになるんでしょうかね。
しかし、私なんか食物アレルギーが多すぎて同じ釜の飯を食らうことはできません。
また、立場が一緒であるということもパートと正社員は違いますし、収入の多さも関係してきますし。貧困でも独り身の貧困と家族の貧困は違うでしょうし。
今の世の中、「みんな違ってみんないい」が当たり前となったので違った立場がたくさんあるような気がします。
「個」を重要視する。
そんな社会で「いっしょ、いっしょ」とか「わかるぅ~」とかはもう死語になっているかもですね。
前の職場の話しになりますが、昼食はみな給食ということで同じものを食べる職場でした。しかし、食物アレルギーがひどい私は、お弁当を持って行ってました。
みんな違ってみんないい社会では、それもありとなりますが、やはり温かいご飯はおいしそうですし、「今日の昼、なに~、これか~!」という楽しい談義にも入ることはできません。
また、給食を取りに行くというのも行っていましたが、食べない私がなんで取りにいくんだろうと悶々とした気持ちを抱えていました。(最初は「食べないんだから取りに行かなくてもいいですよ」と言ってくれる人がいたので取りにいかないのが当たり前なっ空気でよかったのですが、途中からその人が辞めてしまい、取りに行かないといけない空気になってしまって取りに行っていました)
1人だけだと繋がっている感はまったくありません。
また、働いている位置づけにしても正職とパートだと違います。
昔はパート3の正職2という感じで、パートが多かったのでパートの意見を中心に職場は回っていたんですが、途中からパート1の正職4となったため、パートの意見は聞いてもらえなくなりました。
そして、契約終了となりました。
私がパートにしてたのは、正職は長時間的縛りがあり、育児をしながらはとても難しいと判断したからです。
また体調ももって5時間と夕方のフラフラ感でわかっていたので短時間でできることをしようと選びました。
私のみんなと違うところ
・同じものを食べられないことが多い
・長時間仕事はできない
それさえ押さえていれば平和な日常を過ごすことができます。
人によっては「かわいそう」とかかなり上からの目線で言われることもありますが。
そうみられるのがめんどくさいのであまり人にいいません。
食物アレルギーなんて湿疹がどわっと見た目でわかるようにでるわけではありません。
喉や耳管が痒くなる。頭が痛くなる。眠たくなる。私だけの問題。だから人に気付かれない。
長時間仕事ができないも夕方フラフラになっても人に言わないからばれない。
言ったところで言われた人はどうすることもないでしょうから。
電車にも極力乗りたくないのですが、釜ヶ崎に行くには乗らないと行けない。
行ったら楽しいから電車乗ります。
しかし週2回は乗らない日を作って体を休めないと体調を崩す。
それさえ押さえていたら平和な日常です。
これが「みんな違ってみんないい」の違ったところになるんでしょうね。
みんな違ってみんないいけど同じように出来きたらいいよねという人
こういう人が私のような状況を読むと「かわいそう」というんでしょうけど。
明らかに「みんな同じにしようぜ!」という思想が見えます。
「みんな同じにできなきゃおかしい!」という心がありながらも表面的な「違っていいですよねー」なんて言葉をだす。
レッテルを貼っちゃって、「同じように出来るようにがんばりましょう!」となる。
そういう人は無意識に行っているので注意してもたぶんわからないでしょうけど。
みんなと違って受け入れられるのは権威や財力がある方がレッテルを貼られずにインタビューされているような気がします。
メリットレッテルはつけていますが。「教授」とか「社長」とか。
そんな人に「同じようにできたらいいよね~」とは言えませんわな。
「出来なくてもいい、そのままでいいんだよ~」にも優越感という厄介者がついてくる場合があります。
「そのままでいいって私を知ってるんかいな」と思いますが。
そういう人に限って頑張ろう!と思うと「頑張らなくてもいいんだよ~」となる。
行動を押さえつける。
難しいですよね。「頑張らない」にも色々な意味合いがある。
連帯感はみんなで楽しんでたら自然と出る
楽しみの共通点をお互いで味わっていたら自然と連帯感は生まれてくるように思います。
楽しみの部分をお互い味わうのにマイナスを言う必要はない。
歌を歌うのに、みんなで楽しんでいる時に、「私のマイナスはこうで~」という必要はないです。
ただ、その場をとりまとめる人は皆の違いを認識していたほうがいい。
そうじゃないと気配りができない。
目の不自由な人に手を差し伸べているのを
「いいな~」という人に対して笑いで返せない。
「いいな~」はその人の自然な思いなわけですからそれを否定するのもおかしいですし。
この人は目は不自由だけど曲の歌詞やリリース年をすべて覚えているからすごいのよというリスペクト情報も必要。
1人1人のマイナス情報とプラス情報を持つ。
そうすると「みんな違ってみんないい」社会で連帯感が生まれる空間ができるように思います。
まとめ
団体やら組織でそのチームをまとめる人が重要になってくるのかな。
いかに、一人一人の「マイナス面とプラス面」を理解しているか。
そのまとめる役がいないと「みんな違ってみんないい」社会に連帯感は生まれにくいと思います。
また、そのまとめる人も「やらされている感」(自然じゃない)があれば連帯感は生まれにくい。
まとめる人が自分の「マイナス面とプラス面」を理解して生きていれば、周りの人にもそのような対応をすると思うのですが、それを客観的に理解するのが難しい世の中なのかなー。
これからも連帯感について考えるなー。
ほな、また。

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