釜凹バンドの碩さん作品です。まだ途中ですとのこと。私はこれでも魑魅魍魎感が伝わってきますのでいいと思っちゃいます。
まいどです。でくのぼうちゃんです。
ただ表現したいから作る
この作品を写真で見たとき、魑魅魍魎の中にいる人とはこういうことなんだというのがわかり、びっくりしました。
いる人は恐れることもせず、いつもどおりにいるわけです。ただ、周りには魑魅魍魎がいる。
先日からアサーションの書籍の紹介などを行っていました。
アサーティブな人を表現するならば、この仏像のような状態のように飄々としている人のことをいうのではないだろうかと思いました。
そして周りには魑魅魍魎が蠢いている。
碩さんの作品はこちらでも見れるようです。18日~19日です。いけるかな。
芸術としての自己表現
碩さんは一遍上人を思いながら上記のような仏像を彫っているそうです。
今後は福島から木材を取り寄せ彫っていく予定だそうです。
福島でなくても廃材がほしいそうです。いっぱいあんでーという方はご連絡を。
碩さんの作品を見ていますと、自分が感じたことを表現する、まさしく自己表現的活動だなあと感じました。福島の廃材を使って仏像を彫るというちょっと聞いたら社会的活動のように思いますが、作品を見ますとどっちでもいいかと思わせる、不思議な作品です。
何もわかっていない私の考えですが社会のためと思う芸術は芸術じゃないような。
出したいから出すという排便的(お食事中の方はすみません)行為によって生み出されるものであり、出されたものが便であれば肥やしにつかえるじゃんみたいなそれを見て社会的使用発想になるんじゃないかなーと思ってしまうのです。
まあ、作品がすべてを表すのでどっちでもいいんでしょうけどね。
佐伯祐三という画家の作品展がだいぶ前に天王寺の大阪市立美術館でされたので見に行ったことがあります。
佐伯祐三「立てる自画像」|Artrip Museum 大阪新美術館コレクション
その時に、この「立てる自画像」を見ることができました。
解説に祐三は画家ヴラマンクに自分がいいと思った作品を見せたところ「アカディミック!」と批判されて大きな衝撃を受けたということが書いてました。
それまでの祐三の作品はきれいな感じだったのですがそのあとのは暗い、きたない・・・。
でも、私は祐三の気持ちにちょっとだけ寄り添えるような思いがわいてきました。
俺、きれいな絵を描こうとしているだけやん!何がほしいねん、俺!
画家ヴラマンクの言葉「アカディミック!」は「実際的でない」という思いがあったのか「ほんま絵に描いたもちやな~」という思いがあったのかわかりません。
佐伯祐三の兄は福祉畑の人
大阪の中津に佐伯祐三のお兄さん、佐伯祐正がセツルメント施設を開設しました。
しかし戦争時に全焼してしまい、祐正も亡くなってしまいます。今はその跡地に再興し現在も親族の方が福祉施設を運営されています。
縁あってお墓を見させていただくことがありました。
お墓を見ると「ああ、実際にこの地に生きていたんだなー」という思いがでてきます。
兄は社会に対してなんとかしなくては!という思いを実践し苦労し、祐三は自分の思いをただ表現するために苦労する。
対極的な自己表現兄弟です。
対極的であるけれど足して二で割ったらちょうどいいような。
まとめ
自己表現にも色々あるようの思います。
社会的自己表現と芸術的自己表現。
社会的自己表現は一人ではできませんので相互尊重の精神が必要です。
芸術的自己表現はただ表現したいから表現する自分をさらけ出す思いが必要です。
佐伯兄弟を研究したら社会的自己表現と芸術的自己表現とはなにかが見えてきそうな。
まあ、私は研究者ではないので書きたいから書くぜブログ!歌いたいから歌うぜ歌を!をやっていきたいと思います。
ほな、また。