霊魂という存在を信じるか信じないかで価値観が変わる。
まいどです。でくのぼうちゃんです。
このブログの一番最初のほうで自分の体質のことで軽く言っています。
母子家庭 化学物質に過敏 憑依体質 - でくのぼうちゃんのブログ
そう憑依体質なんです。
「憑依」という発想自体が「精神医学」の発想とはまったく違ったものになりますね。
小さいころから幽霊話が大好きだった
親戚に霊感が強いニーチャンがいてまして、その家に行ったときはよく幽霊話をせがみました。すると、そのニーチャンはいつも違った話をしてくれて私の心に刺激をくれていました。見るTVも「あなたの知らない世界」や「心霊写真特集」、読む本もその筋の話や写真、中、高校となると読む雑誌は「ムー」といった感じになりました。
幽霊話が好きというよりは、不思議なものが好きで父親の書斎にあった名作絵画に
書かれていたユニコーンや人魚などに興味がわきしょっちゅう見ていたり、
「my birthday」という雑誌も隅から隅まで読みふけっていたり。
漫画は「うしろの百太郎」「火の鳥」といった感じです。
不思議な出来事は幽霊のせいや妖怪のせい?といった感じで思ったりしていました。
自分のせいにしないところが恐ろしいです。楽天家も超楽天家でしたから。
そんな小さいころの流れから「霊魂」の存在は「ある」というのが普通であると
思っていました。
社会人になり「幽霊話」をするときはまったくなくなり、日々の生活に追われることになりました。
TVでも幽霊特集などはなくなっていました。
社会人になって6年ほどで自分の将来について不安を持ち始め、建築設備営業事務の仕事をやめ、手に職をということで「リフレクソロジー」という分野に入ることになりました。簡単にいうと足裏もみ師です。足の裏にある全身の反射を刺激することにより・・・と営業トークがでそうなので説明はやめておきます。
その分野の本は本屋では「精神世界」というところにあります。
そんなに考えずに軽くその手のスクールの門をたたいたわけなんですが
色々刺激的な出会いと出来事をたくさんうけることができました。
その時の体験などはこちらのブログに軽く書いています。
読みたい方はどうぞ。
こちらのブログはたぶん読まれて何がなんだか書いている意味がわからないと思うので、怖いもの見たい人はどうぞ。
商品化されている「霊魂」
「霊魂」という言葉は、現在では商品化されてしまっていて
いいイメージを受けていない現状があります。
比較日本文化研究会が出している比較日本文化研究 第10号の
特集が「現代社会における霊魂」でしてアマゾンで購入して読んでいますと
そこに次のように書かれていました。
現在、霊をめぐる認識は多様化している。かつて宗教的文脈のなかで、
畏怖や恐怖の念をともなって語られてきた霊は、さまざまな文脈に取り入れられることで、そのイメージもまた拡散しつつある。こうした傾向の顕著な現象として、霊の商品化をあげることができるだろう。心霊写真や「学校の怪談」ブーム、または雑誌の広告欄に掲載されている開運グッズなども含めて、霊はイメージ操作によって加工され、物神化されることで、貨幣価値を有するモノとして流通している。
「霊術を売る」-日本心霊学会の言説戦略をめぐって
一柳廣孝氏
貨幣価値を有するものとするということでマスメディアによって1970年代から
公開されていたわけなのですが、私なんかその洗脳にまんまとはまったわけです。
若かりし(今も若いと思っていますが)私は「幽霊話」を面白い話としてとらえ
退屈な日々の刺激を与えるものとして取り扱っていたわけですから、「霊魂」を
ちゃかしていた(利用していた)わけです。
実際、自分が様々な体験をしてやっと「ちゃかしては(利用しては)いけないもの」と気づきましたが。
そんな「商用霊魂洗脳」にどっぷりはまっていた私が「なんじゃこりゃ?」と
思った出来事がありました。
多重人格ってなによ?
- 作者: ダニエルキイス,Daniel Keyes,堀内静子
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この話は実際にあったことを書いているんですが、気になったのは「多重人格」という言葉でした。
24人の霊魂が憑依したんでないの?
普通にそう思ったのです。
なんでこんな言葉が出てくるのだろう。
そこで「精神医学」という分野があることを知ることになります。
図書館に行き「精神医学史」を読みふける。
「精神医学」ってなんだろう?
ちょうど、その時の私のマイブームが「図書館に行って本を読む」でして
いろんなところの図書館にいって本をかりまくることでした。
「精神医学」を知るのにまずは「歴史」からと思った私は「精神医学史」の
本をもんもんとよみふけりました。
知りたかったのは「なぜその分野があるのか」
もともと、日本は卑弥呼が国を治めていた時期があるくらい「見えない世界」を
大切にしていて、民話などでも不思議な話がたくさん残っている国。
そんな国に入ってきたのはいつからだろう・・・。
民俗学が好きな私は、柳田国男の「遠野物語」を読んでわくわくします。
この場所も大好きです♪
霊魂文化が好きなわけです。精神医学はなんだか霊魂文化を否定しているんでないかい?そんな思いもありました。
そこで精神医学が明治からこの国に入ってきたことを知ります。
江戸時代には精神を病んでいる人はいなかったのか?
江戸時代での一般的概念は「もの憑き」となります。
日本にも、かって「狐が憑く」文化があったというのに。たとえば江戸時代には、狐が憑いたために行方不明になった事件などが、至って真面目に扱われていたというのに。 兵頭晶子著 「精神病の日本近代」 より
憑くものが「神」であれば
「神がかり」として宗教を起こす人もでてきました。
「憑く」ということは本来の人間はなにも変わらず存在しているわけです。
外すということができれば「元にもどる」本来の人格は残されたまま
名誉も残されるわけです。(憑くのはその人の精神性が弱いからと
なればその人も原因があるのである程度の責は問われますが。)
しかし、「病む」ということは本来の人間に変化があることであり
本来の人間を「変える」という行為が生じてきます。
そこが「憑く」概念と「病む」概念の違いではなかろうかと思います。
「憑く」という概念の尊さは無くなった
「憑く」という概念は戦後、急速に「商品化」され、ちゃかす対象になっていってしまったように思います。また、宗教の勧誘問題などがマスメディアでとりあげられ
「憑く」という概念は「めんどくさいもの」になり会話しづらい社会となっています。
「憑く」という概念を「くさいものには蓋をする」という感じで取扱い、医療の現場ではまったく存在すらも否定な状況です。
しかし、沖縄は「カミダーリ」というものを否定せず「精神疾患」とは違う扱いを
行っているようです。
沖縄のように「憑く」というものを考慮とした精神医療の対応も必要なのではと思います。
まとめ
確かに、精神科医療のように「患者の問題」として扱えば対処はいろいろと考えられるだろうと思います。しかし、「憑く」という概念を否定せずにタッグをくんだ沖縄のような体制はとれないのだろうか?それには「何が憑いているか」を認識する審神者の存在が必要となってきますし、審神者養成機関も必要となるだろうなあと考えます。
近現代の新宗教教団においては、人についた神や霊の正体を明かしたり、その発言の正邪を判断したりする者のことを審神者と称している。
「憑く」ということから出てくる問題(差別など)も出てくるので確かに
だれも扱いたくない問題だと思います。
しかし、色々な実体験な話もあることですし、ここは一つこの概念をうまく使って
精神医療の在り方を見直してほしいと思います。
ほな、また。