でくのぼうちゃんのブログ

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当事者でなくてもできることをしたくなるとき。そこに愛はあるのだろうか?

当事者になったこともなく、これからもなる予定もない人は問題に対しての考え、思いを発信するのは当事者からしたらわからないのに何を言っているのだろうと思う。

私だってもし20代の出産体験も育児体験をしたことない人に育児とは!という文面を書かれたら、何をわかるというの?と思うだろう。
しかし、子どもの時に何かあって育児に対してのこうしてほしいという思いが強ければ書いてある文面には何か光るものがある。
私の通っていた母乳相談室の先生も結婚も出産もされていないが、母乳に対する思い入れ、赤ちゃんに対する思い入れ、食に対しての思い入れはすごく、筋が通っていたしその姿勢は尊敬の念を抱くのに相当すると思えるほどだった。
体験もしていない、当事者でもないことの意見を言う時に何が一番大切なんだろう?
気持ちによりそうことも大事だが、相手に答えを言うのではなくただ筋のある考え方を表明するということではないだろうか?
私はまだまだ未熟で自分の思った筋も理解できず、ただ自分の言うことをわかってほしいという思いで書いてしまう。自慰的行為になってしまう。
そんな思いで書いてしまうとわかってもらうどころか感情的な部分を逆撫でしてしまう。
ブログを書いていて、文章というのは固定観念の塊ということをしみじみ感じる。その固定観念の塊をうまく分解して自分のものにしてしまえばいいのだが、世の中そんなにあまくもなくすぐには出来ない。
ここでまた、自分はこのブログを使って何をしたいのかを考えてしまう。
 
そんなに深く考えなくてもいいのでは?という意見がでそうだけど。
 
宗教学者が宗教に入信しなければ宗教を研究しちゃダメなのかという問いがあれば否と答える。
宗教を否定せず肯定もしない立場で研究する必要性を考えるか?
 
前振りが長くてすみません。
まいどです。でくのぼうちゃんです。
 

精神科受診をしたことないものが意見を出すということについて

 
精神科受診に対して受診したことないものが意見を出すことに対して色々と考えることがありました。
 
私の仕事はあいりんに住んでいる人に対しての一時間半だけでも楽しい時間を過ごしてほしいということで行っているリクリエーション事業だけです。諸々の事務もありますが。
 
私はおっちゃんなわけでもなく生活保護受給者でもなくあいりんに住んでいるわけでもありません。
 
共通なことと言えば歌がすきなこと。
 
仕事をするときに、「あいりん」のためにとか「生活保護受給者」のためにとかで仕事はしたくないという思いがありました。
 
同じ価値観を共有したい。
 
ただ、それだけでした。
 
「俺のやり方」を誰もが通しており、無気力傾向が強い私には生きる気力をもらいました。
 
そんなおっちゃんたち何人かが日に日に眼の輝きをなくし生きる気力をなくしていくのを目の当たりにしました。
 
精神薬を飲んでいる人たちが日に日におかしくなっていくんだよなあ。
 
当時、同僚も精神薬に対しておかしいという思いがでていると話してくれました。しかし、あまり首を突っ込めないよなと話しました。
 
子どもが生まれ、社会毒という存在や自身のアレルギーというものに向き合い、
「なんかあったら薬で対処」で生きてきた私には子どもを守るために勉強することで自身の価値観がひっくりかえされ、しかし、健康になっていく自分がいてました。
勉強といっても家の食事をちゃんとする、洗剤を見直すぐらいですが。
 
しかし、価値観がひっくりかえされたことによって自分の職場環境の現状の霞がとれ、問題がズンと見えてきました。
 
あまりにも大きな問題すぎてどうしようもないと思いました。
そして同時に「人」というものも見えてきました。
この人はどういう人だろうということが問題の向かい合い方で見えてきたのです。
 

問題が大きすぎてどうしようもないと途方にくれていいのか

 
この問題はあまりにも大きすぎて解決できないだろう。
 
じゃあ、どうする?
 
自分の関わっている人だけでもなにかできたら。
 
そんな思いが出てきて、関わっていて精神薬を飲んでいる人に
さりげなく何錠飲んでいるか聞いてみました。
 
でるわ、でるわの量でした。
 
できるだけ少なくしたほうがいいし、少なくしたくない?
 
みんな、声をそろえて言うのは
「少なくしたい」
 
私ができることはそれぐらいです。
後は本人の意思で量を減らすようにしてもらうことです。
病院の先生にいって量を減らしたいということを言ってもらうことです。
 
そのような立ち位置でつきあっていくと次のような問題も見えてきました。
 
精神薬を飲みながらのアルコール摂取
精神薬多剤処方による糖過多の糖尿病
強制的に飲まされる(管理人から)
 
睡眠薬は皆当たり前となっています。
確かに眠られないのはつらいことだと思います。
 
減薬という過程をしたことがないので聞き覚えとなりますがかなり大変なことだ
という話を聞きます。
たとえ精神薬を止められたとしてもそのあとのフラッシュバック問題などが
でてきます。
 
 
そのような苦労を高齢者の人に勧めることは難しい。
しかし、多剤処方でおかしくなるのをほっとけない。
 
人によっては薬が効いていないからと先生にもっと薬をくれ!と訴えて
しかたなしに処方されているケースもあるようです。
 
そうなると薬自体を否定しないと辞めることができなくなるわけですが
薬を否定すると治療を否定するわけですから
医者としてもいえない部分がでてくるのでしょう。
 
今、私にできることは「精神薬を飲みたくないという気持ちはおかしくなく当たり前」という気持ちによりそって話を聴くぐらいです。
 

精神薬での心のアプローチは確立されてしまった

 
心に対してのアプローチ方法が精神薬と確立されてしまった以上
それを崩すのは時間と労力がかかります。
 
また、そのアプローチはおかしいと思っている人と情報のやりとりをする必要があります。
 
今、韓国では塾に入り薬を使ってやる気向上をさせることを国自身が支援しているという情報を読みました。
高学歴が子どもの幸せという価値観と国の経済的向上であるという価値観が合致したのでしょうか。
 
薬を使っての幸せ達成よりも使わずの幸せ追及のほうがいいような気がします。
 

通常病院も精神科医療に建て替え?

 
サイトを見ていましたら
変化の対応 精神科医療 建て替え戦略 的な内容の論文が出てきました。
 
結構、大きな誰もが知っている病院でした。
 
なんだかその論文を読んでいると悲しくなってきました。
 
一般入院報酬は精神科の場合出来高制になるとのこと。
出来高制かあ・・・。
 
病院も生き残り戦略を考えないといけないわけです。
 
だから今、増えている精神病に対応していこうという話ですが、
お金も絡む話なのでなんともいえません。
 
からくりを見るか、表面だけをみるかは人によって見方は違いますが。
 
ただ、私が言えることは
違うアプローチをしないとやばいのではないかい?と思うことです。
 

 

精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本

精神病院を捨てたイタリア 捨てない日本

 

 まとめ

 

鬱状態や自分をコントロールできない状態になることはだれもがあることだと思います。重要なのはその状態になったときにどのようなアプローチをするかです。精神医療はすぐになくならないでしょう。しかし、事実を把握してきちんとした共存社会の構築を図ることは必要なことだと思います。くさいものに蓋をしたらきれいですが蓋をしたところから腐敗は進行します。その腐敗をどうするか処理する覚悟をもったほうがいいなあと思った日曜の朝でした。ほな、また。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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