クリスマス、終わりましたね。
これほど、価格変動を味わえる時期はこのクリスマス周辺をもってほかにないでしょうね。経済の勉強ができてうれしいです。(←まだやっています。)
まいどです。でくのぼうちゃんです。
昨日、色々なブログを読ませてもらっておやおやと思うブログがありました。
結構名前が通っていらっしゃる方で、その内容は「お金持ちに冨を集中させようぜ!」みたいなことだったと思います。(間違ってたらすみません)
世の中にはいろんな価値観があるんだなあとしみじみ思いました。ブログというのはその色々な価値観を見れることに良さがあるんですね。
価値観は二極化している?
しかし、この価値観、極端に二つに分かれているように感じます。
どっちがいいか悪いかは議論することではありませんが私が感じているものを
あげていきます。
ワクチン
肯定派・・・それら病にかかりにくくなり健康に生きることができる。
否定派・・・人間の免疫力を弱め病にかかりやすくなり副作用がでる場合がある。
牛乳
肯定派・・・カルシウム豊富で骨を強くさせて体にいい。
否定派・・・本来人間が飲むものではなく分解酵素がない体質もあるため
アレルギーなどを起こさせる。
糖
肯定派・・・脳を元気にさせる取る必要があるもの。
否定派・・・本来人間は過剰に摂取するものではなく、すべての病気の源である。
遺伝子組み換え種
肯定派・・・農業の安定供給のため必要なもの。
否定派・・・人間の健康を脅かすもの
人工添加物
肯定派・・・安値で安定したものを製造できる。
否定派・・・人間の健康を脅かすもの
肯定派はどちらかというと「人間はすごいなあ!」というのを肯定している人が
多いような感じがします。
お金持ちな人の名前を見ていても何をしているかというところで上記物に肯定的にかかわっている人が多いように思います。
ビル・ゲイツなどは財団を作ってワクチンを送り、ジョブスはその財団の資金融資を行っている。
この行動を称賛する人もいるでしょう。
しかし、否定派は「なんということを!人口削減目的か!」と思うわけです。
どちらがいいか悪いかはわからないのです。
お金持ちに冨を偏在させると?
お金持ちの人格がどういう人かなんて私のような一庶民が知るわけもありません。
どのような思想を持っているか。
これによってお金の使い方がかわってくるわけなんですがわかることは
「自分がすることはすばらしい!」と思っているであろうことだけです。
そういう考えをもっていないと大きなことはできません。
しかし、「自分がすることはすばらしい!」が果たしていい効果ばかりを
社会にもたらすのでしょうか?
「自分がすることはすばらしい」という思想を「優生思想」を持っていると
考えることができます。
優生思想でwikiがないので優生学でその思想が何かをみてもらえたらと思います。
応用科学に分類される学問の一種で、一般に「生物の遺伝構造を改良する事で人類の進歩を促そうとする科学的社会改良運動」と定義される。
1883年(明治16年)にフランス・ゴルトンが定義した造語である。
科学的社会改良運動ってサラっと怖いこと書いてますね。
優生学は20世紀初頭に大きな支持を集めたが、その最たるものが生物学者オイゲン・フィッシャーらの理論に従って行われたナチス政権による人種政策である。
そう人種政策に関わると怖いですよね。
白人種は地球上で一番素晴らしい人種だ!その人種を残してあとの人種は奴隷になってくれる人種をわずかに残せばいいんじゃないか?なんて思想もたれたら
どうしましょうか?改良も自分達人種繁栄のために奴隷的人種への改良だったら
そりゃこわいってもんじゃありません。
でも、お金持ちになる人たちって自分達をすばらしいんだ!と思っているわけですからこんな極端な人が出てきてもおかしくないわけです。
お金持ちも自分たちがさらなる繁栄を目指しているわけですから。
今までの歴史でも奴隷制度というものがあったわけですから奴隷をもつことは
普通であるという思想すぐには消えたとは思えません。
一庶民はどうする?
今、経済の勉強を小学生がわかるレベルから細々とやっていますが、
冨を偏在するということは結果論であって別にそのような発想もたなくても
いいんでないかと思うわけです。で、一庶民がすべきこととしたら消費者という
経済の最長点にいることをメリットとして考え、マスメディアなどに流されず
消費するときにどのような需要を拡大させているかを考えることが大事なのでは
と思います。
まとめ
思想が二極化をして「どっちが正しいのだろう?」とわからなくなっている
人って多いと思います。情報もこんなにあって「情報の海に漂流状態」で
ただ、泳ぐにしてもどこに泳いだらいいんだろう・・・。
そんな世の中で生きるのに必要なのは「なぜ?」という思いと「調べる」という行動が自分を守ってくれるようなそして結果として人を守っているようなそんな思いが
するクリスマス明けの朝でした。
ほな、また。